卒業生インタビュー

このページでは様々な業界で活躍する卒業生を紹介しています。

※所属や肩書はインタビューや寄稿同時のものです。

"中学生時代の夢を実現!アスレチックトレーナーとして活躍中"

20201118 oboginterview nishikawa

ほそかわ?しょうへい。1989(平成元)年12月13日生まれ。広島県福山市出身。2012年3月、鹿屋体育大学体育学部スポーツ総合課程卒業。2017年5月 University of Nebraska OmahaにてAthletic Training修士号を取得 卒業後、同年7月より公益社団法人日本ウエイトリフティング協会でアシスタントナショナルコーチとしてユースからシニアまで各カテゴリーのナショナル選手に対し、国内合宿や国外試合でのサポート活動に従事。

体育大学の学生の大多数が「プロ選手になりたい」「オリンピックに出たい」等、子どもの頃からそのスポーツでトップに上る夢を持っていたと思う。しかし怪我に泣いたり、自分の限界を感じて夢を諦めてしまったりと現実の壁に阻まれてしまうケースがほとんどだろう。それでも卒業後はスポーツに関わる仕事をしていきたいと望む人は少なくない。今回ご紹介する細川翔平さんもそんな一人だ。現在は日本ウエイトリフティング協会に所属するアスレチックトレーナ(AT)として、日本代表選手の海外遠征にも帯同している。

ATにあこがれたのは中学時代。 Jリーグの下部組織でサッカーをしていた時に捻挫をしてしまい、その時にたまたま診てくれたATに心を動かされたという。弱気になっていた心に寄り添い励ましてくれたことがとてもうれしく、それが、その仕事にあこがれを抱くようになったきっかけだった。

鹿屋体育大学に一般で入学し、フットサルやサッカーをしながら、2年生の時にはすでに学生トレーナーとして活動を開始。さらには大学教員の紹介でテキサスで仕事をするATについて現場見習いを2週間体験することに。この経験が決定的だった。さらに夢が大きく膨らみ、「鹿屋を卒業したら米国に留学してATの資格を獲得したい」と決意したのだった。

しかしすんなりと事は進まなかった。大学卒業後、留学資金調達のために1年間アルバイトをしながら英語の勉強に励み、ネブラスカ大学のオマハ校に進むはずだった。しかし英語は好きで得意なはずだったのに、現地に行ってみたら「何を話しているのか全く分からない」状態。再び現地で英語の勉強とATになるための準備に明け暮れることになった。

ネブラスカ大学のオマハ校には伝統的に日本からの留学生も多く、世界中から学生が集まっている。さらには周辺にアイスホッケーやバスケットボールの強豪校やチームがあって豊富な実習経験を積むことができる。環境としては最高の場所だ。米国に渡ってから語学学校を経て準備期間のコミュニティーカレッジでのAT体験授業、さらには大学院を卒業してATの資格を取るまでに細川さんは米国に4年間暮らしたことになる。「要領が悪くて人よりはかなり時間がかかってしまった」というが、その時間は無駄ではなかったようだ。さまざまな人と出会いながら友情をはぐくみ、目標に向かって一つ一つ課題をクリアーしながら努力を続ける粘り強さと探求心が細川さんの持ち味なのだから。実はその基礎は鹿屋で作られたという。

鹿屋体育大学での良さは、東京に比べて情報量が少ない反面、これだと決めたことに集中してやり遂げることができたことにあったという。日本全国から集まった仲間の地方色や一人一人の個性に驚きながらも知見を広め自分なりの価値観を作りたいと励んだ日々、そしてその環境の中で興味を持ったことを徹底的に行えたという自負が今の細川さんを支えている。その力がネブラスカに行って一層磨かれたのだ。

さらに帰国後すぐに日本ウエイトリフティング協会に所属するという幸運にも恵まれた。

「就職は縁と運とプラス?アルファーですね。本当に幸運でした」と振り返る。ウエイトリフティングの競技の知識がほとんどないに等しかった状態で、いきなり振られた仕事が2017年6月に東京の大田区で行われた世界ジュニア選手権大会。右も左もわからぬまま、ただただ一生懸命見て覚え、資料で復習する日々を続け、徐々にその面白さにのめりこんでいったという。さらにはその年の12月、米国アナハイムの世界選手権に通訳兼ATとして日本代表チームの一員として派遣されたのだ。「入ったばかりでこんな重責を担うなんて普通ではないことだよと皆に言われました」と細川さんはいうが、その大抜擢の裏には彼の仕事に対する真摯な態度があってのことと推察される。アナハイムでは二人の選手が目の前でメダルを獲得し、改めてサポートする喜びと感動を肌で感じたという。

アスリートが怪我をしないように本格練習に入る前後のストレッチメニューを考えたり、傷害からの復帰の過程をサポートしたりと、アスリートに寄り添いながらサポートする重要な役割を担うAT。

夢は、かつて中学生だった時に親身になってくれたATのように、携わる一人一人の選手に寄り添って自分が受け取ったATのバトンを次の人に渡せるようになることだという。

 

(スポーツ文化ジャーナリスト 宮嶋泰子)

※所属およびインタビュー内容は、取材当時のものです。

「自分の身長ぐらいにはなっているかな?と思ってきたんですけど、2~3mありますね!」。鹿屋体育大学在学中に女子自転車競技で日本新記録を出すたびにキャンパス内に植樹した記念樹の数は、現在確認できるだけでも15本。成長した樹木に手を添えて、卒業以来初めて訪れたキャンパスで満面の笑顔をみせた。大学4年生の時にはロンドンオリンピック代表選手に選ばれ、卒業後も女子自転車競技界の第一人者として活躍した。2018全日本選手権自転車競技大会トラックの女子スプリントで、10連覇を達成した日に電撃引退を発表。現在は電通九州に入社し、元アスリートとしての目線を生かしながら新たな活躍の場を広げている。常に志を高く持ち、自身の力で道を切り拓いてきた。もうひとつの大輪を咲かせるべく、新たな挑戦の日々は続く。

前田佳代乃さん

まえだ?かよの。平成3年1月13日、兵庫県西宮市生まれ。兵庫県立西宮高校から鹿屋体育大学に進学。4年生の平成24年、ロンドンオリンピック代表選手に選出される。平成25年3月、鹿屋体育大学スポーツ総合課程卒業。卒業後は京都府自転車競技連盟所属選手として活動。2018年9月、全日本選手権自転車競技大会トラック種目女子スプリント決勝で10連覇を達成し、引退。日本オリンピック委員会の「アスナビNEXT」を利用し、2019年2月1日付けで電通九州に入社し、現在に至る。

―自転車を始めたきっかけはお父様だそうですね。

前田 父が職場の有志でつくる自転車部に所属していたので、大会の応援に行った際に子どものレースもあることを知って小学校2年生から始めました。2006年に兵庫国体があったのですが、兵庫県ではそのときに高校生になる小学生を強化する特別強化事業というのがあって、小学生の頃から週末は明石公園陸上競技場を自転車で走るようになりました。このときの経験が人生の転機につながったと思っています。

県立西宮高校には自転車部がなくて、“一人自転車部”だったそうですが、高校時代から第28回アジア自転車競技選手権大会ジュニア部門500m個人タイムトライアルで優勝するなど、頭角を現していました。鹿屋体育大学に進学したのは?

前田 将来は体育の教師になりたいという漠然とした思いがあり、親も国立大学ということで乗り気でした。ほかの大学からも推薦で声がかかっていたのですが、親に4年間自転車で頑張る気があるのだったら、自転車競技に打ち込める環境のところに行った方がいいんじゃないかと言われて、自分でもその通りだと思ったんです。でも鹿屋は思っていた以上に遠くて。職員さんが話す鹿児島弁がわからず、まるで外国に来たようでAO入試のために訪れた初日から衝撃を受けました。

―4年生のときにロンドンオリンピック代表選手に選ばれ、卒業式では答辞を読むなど大活躍でした。卒論の内容も優秀だったと聞いています。

前田 課外活動やナショナルチームでの活動がメインの生活で、遠征で大学を不在にすることも多かったのですが、教員免許も取りましたし、卒論も頑張りました。自分では4年間学問も手は抜かなかったつもりです。何のために学費を払って大学に行っているかということを常々家族に言われていたこともあり、学業優先という意識は常にありました。前田明先生が担任だったというのも大きかったと思います。「みなさんAO入試で入ってきていますけど、もちろん勉強も頑張りますよね」って、入学式の初日に言われて、「あ、やられた」と思ったことは今でも覚えています(笑)。

―大学卒業後も京都府自転車競技連盟所属選手として活躍しました。

前田 大学4年生の時にオリンピックに出たこともあって、多少なりとも自分に競技者としての責任が発生したと考えるようになりました。当時は女子の自転車競技の短距離選手がまだ少なくて自分自身がとても苦労したので、自分の経験を引き継げる下の世代が出てきてバトンを渡せるまでは頑張ろうと決めました。競輪選手でなくてもナショナルチームで活躍できるということは、少しなりとも示すことができたかなと思っています。

―2018年、女子スプリントの10連覇達成後の突然の引退宣言で世間を驚かせました。

前田 やっとあとを任せられる若い後輩が出てきたんです。それと自転車だけが自分の人生ではないということをずっと思っていて、自転車というものが自分からなくなったとき、あなたそれだけのひとだったのねってなるのは嫌だなと思っていました。なので、次に何をやるか決めていない状態で辞めたんですよ。

―日本オリンピック委員会(JOC)が実施している、引退したトップアスリートのセカンドキャリア支援「アスナビNEXT」を利用して2019年2月に電通九州に採用されたそうですね。

前田 そういう制度があると知って、自分で電話しました。行動力だけはあるので(笑)。元選手としての経験や選手目線を今の職場で生かし、自分もまた成長できたらと思っています。

―最後に今後の抱負を。

前田 電通九州では現在世界水泳の仕事をしています。2022年に世界中から選手が来てくれて、あの大会はいい大会だったと言ってもらえるように、推進室のチームの一員としてまっとうしたいです。実は自転車競技の審判員の資格を取りました。自分を育ててくれた自転車の業界には、これからもかかわっていきたいですね。

(取材?文/西みやび)

※所属およびインタビュー内容は、取材当時のものです。

"「泳ぐだけがプールじゃない」コロナ禍に負けないアイディアマン"

20201118 oboginterview nishikawa

にしがわ?じゅんや。昭和57年〇月、香川県丸亀市生まれ。平成16年鹿屋体育大学体育学部体育?スポーツ課程卒業。200m自由形でアテネ五輪代表選考会に出場。香川県記録更新(10年間保持)。水泳のインストラクター、システムエンジニアを経て、平成22年からプール専門の水中フォトグラファーとして活動を始める。平成27年7月、株式会社Rockin’Poolを設立し、代表取締役に就任。

コロナ拡大で縮小を余儀なくされた最たるもの、それがスポーツ業界だろう。その中で、飛ぶように売れたのがプールマスクマンと呼ばれるビニール製のマスク。水泳教室で水に浮かぶ子供たちとインストラクターの距離は近い。「何か口を覆うものが欲しい」という現場からの要望に応え、試行錯誤の末に作られたのがこのマスクだ。指導者が大きな声で呼びかけても、呼気の飛沫がプールの中で他の人に直接かからないのはもちろんのこと、これを着用したまま四泳法で泳いでもずれずにお手本を見せることができるという。ヤフーニュースやテレビの番組でも取り上げられ、今では大手のスポーツクラブの水泳インストラクターはほとんどといっていいほど着用している。その発明者が西川隼矢さんだ。

西川さんは鹿屋体育大学の水泳部ではアテネ五輪の金メダリスト柴田亜衣さんと同学年だった。西川さんは自分自身を「思っていることをすぐ口に出してしまうタイプで、コーチの指導におとなしく従う選手ではなかった」という。鹿屋のプールで鏡を見ながら自らの泳ぎをチェックして自分流の泳ぎを追求することが好きだったそうだ。

大学で印象に残っているのは田口信教教授の授業だった。田口教授はミュンヘンオリンピック平泳ぎで金メダルを獲得したことで知られているが、実は水泳の実力だけではなく、その後の人生でも多くのアイディアを花咲かせている。私自身、40年ほど前、大学ができて間もなくの頃、田口教授のアイディアで作られた低圧の流水プールや、光るペースメーカーを底につけたプールなどをニュース番組で取材をさせていただいたことがある。当時世界的に見てもこれだけの施設を持っていたのは鹿屋体育大学だけだったと思う。

田口教授は授業で、「特許を取りなさい。私はこんなものを作って特許を持っている」と披露されたという。それを聞いた西川さんは、「特許をとることはハードルが高いことではない、いつかは特許をとれるようになりたい」と強く思うようになったそうだ。田口教授の授業で、西川さんは自分のアイディアを形にしていくことの面白さを心に植え付けられたようだ。

西川さんは大学卒業後、スポーツクラブの水泳インストラクターを経験。もっと稼ぎたいと3年後にはシステムエンジニアの仕事をゼロから始め、その後脱サラをして自分の会社を設立。苦しい時はアルバイトを掛け持ちしながらも、あふれるプール愛を抑えきれず、様々なプールコンテンツのアイディアを実現化してきた。

プールを単なる泳ぐだけの場所にしておくのはコストパフォーマンスが悪すぎると考え、まず取り掛かったのが、プールに浮かべてエクササイズをするプールノというボードの製作と販売だ。水上で行うバランスボールエクササイズといったらわかりやすいだろうか。水の上で揺れるボードの上で行うエクササイズでインナーマッスルが鍛えられ、さらに童心に返って楽しめると好評で、今では多くのスポーツクラブに取り入れられている。バランスを崩しドボンと水の中に落ちる感覚は眠っていた子供時代の記憶を呼び覚ましてもくれるようだ。

さらには水中バーチャルリアリティーのエクササイズも始めた。水中で両手にはめたグローブを使ってバーチャルリアリティーで次々に出現する的を打ち砕くもので、水の抵抗もあってかなりの全身エクササイズになる。子供向けかと思いきや、なんとターゲットは中高年層という。

そのほかにもプール専門カメラマンとしての仕事もある。今では多くの広告のための画像づくりも引き受けている。見慣れていたはずの水の中の映像が、カメラで切り取った瞬間に見違えるようなアートになっていたり、子どもたちの水中での表情が見たことのないような笑顔だったりと、撮影しながら多くの発見をするという。

「香川県記録を引っ提げて鹿屋体育大学に入学し、見事に天狗の鼻を折られた」という西川さんだが、あふれるようなプール愛の持ち主で、「プールにより多くの人に来てもらい、楽しんでもらえる場所にすること」こそが、自分の仕事ときっぱり言い切る。競泳の記録や結果だけではない本当の水の楽しみを人々に知ってもらいたいとアイディアで勝負をするのも鹿屋体育大学で出会った人たちのおかげだ。

プールマスクマンで得た資金をもとに、さらに新アイディアでプール産業を大きくしていきたいと西川さんは夢を追う。

 

(スポーツ文化ジャーナリスト 宮嶋泰子)

※所属およびインタビュー内容は、取材当時のものです。

"障がい者スポーツの普及に取り組む"

「目標は変えるもんじゃない」。穏やかながらもキリっとした表情で言い切る言葉が、深く心に響いた。鹿屋体育大学1年生の時に突然車いすの生活になるも、“JAPANのユニホームを着て世界に出る”という高校生の頃に抱いていた夢を大学院生の時に実現させた前田究さん。車いすマラソンのお陰で新たな人生のスタートを切れた喜びと感動の経験を広めたいと、障がい者スポーツの普及?振興に取り組む。常に目標を掲げ、不可能を可能に変えてきた。50代を目前に、選手としての今のモットーは「細く長く」。迷いのない目で明日を見つめ、新たな夢に向かって走り続ける。

20201118 oboginterview maeda

まえだ?きわむ。昭和46年10月、京都府生まれ。京都府立洛北高校3年生の時、インターハイ京都府予選で走り幅跳び、三段跳びで優勝。平成6年3月、鹿屋体育大学体育学部体育?スポーツ課程卒業。平成9年3月、同大学大学院体育学研究科修士課程修了。鹿屋市の建設会社勤務を経て平成12年4月、ハートピアかごしまの開設と同時に鹿児島県身体障害者福祉協会に勤務。鹿児島県障害者スポーツ協会事務局長。著書に「車椅子マラソン競技者用テキスト:脊髄損傷を中心に」「車椅子マラソン:医?科学的研究と実践指導」(いずれも赤嶺卓哉、前田究共著)がある。

―第20回全国障害者スポーツ大会「燃ゆる感動かごしま大会」が延期になりました。

前田 現時点では次はいつになるかわからないということなので、選手としてゴールがなくなってしまった状態です。来年の三重県での開催に向けて頑張ろうという本県のチームもあるのですが、メンバーって変わっていくんですよ。年齢が高い選手は続けていくのが難しいかもしれないし、若い選手は進学や就職で環境が変わってしまう。団体競技は今のメンバーで戦うことをみんな楽しみにしていたので、モチベーションが大丈夫かなっていうのはすごく思いました。

―鹿屋体育大学に進学したのは?

前田 中学生の時から陸上をしていたので、大学でも陸上は続けて結果を出したいと思っていました。高校2年生の時に京都で国体があったので、当時の洛北高校には世界陸上に行くようなすごいレベルの先生が集まっていました。そういった先生方は横のつながりもあって、鹿屋体育大学の瓜田吉久先生や金高宏文先生と知り合いでした。その縁もあって高校3年生の時に鹿屋までキャンパスの下見に行き、なんて素晴らしい環境なんだとド肝を抜かれて、ここで学びたいって思いました。陸上競技場があるというのがとにかくすごいな、と思って。キャンパスから見える錦江湾の景色も、生まれ育った京都市には海がないのでとてもきれいだと感じました。

―学生時代に交通事故に遭われたと聞きました。

前田 大学1年生の9月に原付で寮の友人を訪ねた帰りに、軽自動車と正面衝突して脊髄を損傷し、車いすの生活になりました。将来はオリンピックや世界陸上に行きたいと思って陸上競技部に入ったのに、目標を失ってしまったんですよね。でもリハビリの病院で僕よりも障がいの重いおばちゃんに出会って、「前田君はまだ若いから車いすマラソンをやったら」って言われたんです。そんな競技があるのかと思いましたが、同じ陸上競技だと気付き、すぐやろうと思ったんですよ。

新たに目標ができたことで入院生活が変わりました。それまでは主治医の先生に「手が足の代わりになるから上半身を鍛えよう」と言われ、なんとなくリハビリに取り組んでいましたが、それだけではマラソンに対応できないと、自主的に坂道ダッシュのトレーニングを日課にしました。2年生の9月から大学に復帰するとともに陸上競技部の活動にも加わり、3年生で念願の車いすマラソン大会デビューを果たしました。

大学生活では座学だけでなく実技にも挑戦。器械体操では北川淳一先生にトランポリンをやってみよう!と言われてやってみると両下肢麻痺でもそこそこ跳ねるようになって。先生のコツの教え方がうまくて、びっくりしたことを覚えています。当時の先生方が尽力してくださったおかげで、規定の単位を取得。4年間で無事に卒業することができました。

―赤嶺卓哉先生との共同著書もあります。

前田 3年生になる時に車いすスポーツの研究ができるので私のゼミに来ませんかと、赤嶺先生に誘っていただきました。大学院にも進学し、障がい者スポーツの単独競技では国内」初となる車いすマラソンの競技者用テキスト発刊に関わりました。現在は鹿屋体育大学の学生に非常勤講師として後期の「障がい者スポーツ論」を教えています。

実は大学院生の時に日本代表でジャパンのユニホームを着て、イギリスまで国際大会に行っているんですよ。目標が大事だという話はよくするのですが、目標は変えるもんじゃないということをそのときに思いました。目標は変えずにやり方を変える。走り幅跳びで国際大会に行くという目標は叶いませんでしたが、車いすの陸上で行けた。1度失った目標を違う方法で叶えることができました。

―今後の夢は?

前田 僕自身、車いすマラソンに生きる力をもらったので、障がい者スポーツを広めたいという思いで今の職業に就きました。延期された全国障害者スポーツ大会のことは鹿児島ではまだあまり知られていませんが、大会を機に障がいのある人が当たり前にスポーツできる環境を整備し、障がいのない人の認知度も向上するよう、これからも働きかけたり、やれることをやっていきたいと思っています。大分国際車いすマラソンには今でも出場しています。車いすマラソンの現役選手としても、細々とでも続けていきたいですね。   

(取材?文/西 みやび)

※所属およびインタビュー内容は、取材当時のものです。

”ペンでアスリートを紹介”

「大学同期の赤尾公選手もいた鹿児島ユナイテッドFCの鹿児島県勢初のJリーグ参入に、取材でかかわれたことがうれしかったですね」と、はにかんだような笑顔を見せた。念願の運動部に異動して7年目。昨年8月の天皇杯JFA第99回全日本サッカー選手権大会では、3回戦?鹿屋体育大学対大分トリニータの試合を現地取材、サッカー経験者ならではの豊かな表現力と母校愛を感じさせる心温まる記事が印象的だった。ゴールキーパーとして活躍していた高校時代、南日本新聞の取材を受けたのがきっかけで新聞記者に。東京五輪を控え、元アスリートとしての夢をペンで伝えるべく奔走する日々を送る。23期生の下野敏幸さんからは、やりたいことをやれている充実感が全身から伝わってきた。

20201026 obinterview shimono

しもの?としゆき。昭和62年5月、鹿児島市生まれ。サッカーの強豪校と言われる東福岡高校から、鹿屋体育大学へ進学。平成22年3月、同大学スポーツ総合課程卒業。同年4月、南日本新聞社入社。平成26年から編集局運動部

―鹿屋体育大学に進学したのは?

下野 小学校4年生から始めたサッカーを続けるために、地元の中学校を卒業後、福岡県の東福岡高校に進学しました。高校の1学年先輩に長友佑都選手がおり、同じように東京の大学に進学したいという気持ちも強かったのですが、高校の先生に鹿屋体育大学のスポーツ推薦を受けてみないかと言われ、地元鹿児島ということもあり、受験を決めました。

―なぜ新聞記者に?

下野 中学を卒業して県外の高校に進学したので、鹿児島の友達とも疎遠になっていたのですが、高校3年生の時に東福岡高校サッカー部の主力メンバーは鹿児島県人が多いという話題を南日本新聞で取り上げてもらったところ、久しぶりに中学時代の友達や知り合いから連絡がきて、反響の大きさを体感したことをずっと覚えていました。生意気にもプロの選手になりたいと思っていたのですが、実際には無理だということにやがて気付き、新聞記者になってスポーツを取材する仕事に就けたらと漠然とですが思っていましたので、試験を受けてたまたま入れたという感じです。

―鹿屋体育大学の魅力は何だと思いますか。

下野 競技に集中できる環境だと思います。ストイックに頑張った人は、プロになれるということを実際に見てきました。学生時代、世界を舞台に活躍している人たちと一緒に授業を受けて、刺激を受けることも多かったです。

―体育大の卒業生でよかったと思うことは?

下野 サッカー部の塩川勝行監督やバレーボール部の濱田幸二先生、自転車競技の黒川剛先生など、取材の現場でも母校の先生方や卒業生、在校生とつながりを持てることです。後輩がJリーガーに内定したときは大学まで取材に行きました。平成30年にはインドネシアのジャカルタまで「第18回アジア競技大会」の取材に行かせてもらい、体操競技部の前野風哉さん、自転車競技部の橋本優弥さんと卒業生で東京五輪への切符を獲得したお兄さんの英也さん兄妹にも取材して紙面で大きく紹介しました。東京オリンピックは1年延びましたが、体操競技部の杉野正尭君にチャンスがあるのではと期待しています。

―今後の夢は?

下野 異動で運動部に来たときは、東京五輪の取材はベテラン記者がやることで、自分にはおこがましいと思っていました。思いがけず7年目に入り、スポーツをしていた頃、選手としては遠い存在だったオリンピックに、報道という立場でそこに立てるチャンスがやってきたので、そのチャンスをつかみたいと思っています。会社としてはスポーツだけをやれればいいということではないことも理解していますが、現在入社の動機になった仕事をできているのは本当にありがたいです。

―最後に後輩たちにひとこと。

下野 僕は高校も大学もスポーツで選んだので、はたから見たらスポーツバカに見えるかもしれませんが、スポーツを通して学んだことや積み重ねてきた経験は、仕事をするうえで生きていると感じます。厳しさに耐えることや、困難を克服するためにどうすればよいかを考えて練習を続けてきたこと、体育大でいろんな仲間たちと切磋琢磨するなかで身につけてきたことは、将来きっと役に立つと思います。今やっていることは決して無駄にならないので、自分を信じて一生懸命頑張ってほしいですね。 

(取材?文/西みやび)

※所属およびインタビュー内容は、取材当時のものです。

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